「己が身にひきくらべて 殺してはならぬ 殺さしめてはならぬ」

 

(『法句経』第十章「暴力」より)


 数年前、研修旅行で広島市の平和記念資料館を訪れました。
 骨組みをさらす原爆ドーム、高熱によって一瞬のうちに溶解した数々の遺留品など、多くの展示物が当時の様子を現在に生々しく伝えています。原爆という人間の生み出した暴力の極致、その恐ろしさに身震いしました。熱で溶けて顔と体の半分が無くなった仏像を見たとき、仏さまが人間の愚かさを悲しみ、またお怒りになっているように思いました。
 命の大切さ、重さ、かけがえのなさを知りながら、なぜ人は殺し合いを止めることが出来ないのでしょうか。広島、そして長崎の原爆投下から七十年経った現在、世界に核兵器が溢れ、お互いに相手を恐れミサイルを突きつけあい、世界各地で正義を掲げた戦争が続いております。
 釈尊は、暴力や殺しは相手が自分と同じ命を生きる存在であることを忘れたところに起こるということを『法句経』のこの言葉で教えて下さいます。暴力によって殺される者に思いを寄せて、その苦しみや恐怖を我が痛みとして感じることが出来るならば、「殺す」ということは起こりえない、「殺させる」ということがあってはならないと教えられているのです。
 今年も私の田舎では原爆投下の時刻を知らせるサイレンが響く季節になりました。広島・長崎から遥か遠くの北の田舎に鳴り響く音は、暴力によって奪われた命への共鳴の声に聞こえてきます。

《YH》 

2017年08月01日